私の自己紹介として、幼少期から現在に至るまでのストーリーを、少しずつですがお伝えしたいと思います。
〈幼少期〉
嵐山町生まれ、嵐山町育ち。5才上の姉、2才下の妹がおり、真ん中長男として育ちました。
いつもふざけてばかりで目立ちたがりの幼少期
幼少期の写真は顔に大きなキズがあったり、腕を三角巾で吊っていたり、いかに落ち着きのない子どもだったかがよくわかります。当然マジメな顔をしている写真など残っていません。
菅谷小学校に入学。大きすぎる声のおかげで、何のスポーツもしていないくせに運動会の応援団長も務めました。
反面、喘息持ちで、中学に入るまでは季節の変わり目ごとに休むような子だったので、今、自分が親になってみると、元気でいても、寝込んでいても心配の尽きない子であっただろうなと思います。
〈中高生〉
菅谷中学校で野球を始めてからは体力にも自信がつき、技術的には試行錯誤の毎日でしたが、振り返ってみると、思うようにいかない事に取り組む楽しさを知ったり、体の使い方に興味を持ったのは野球に触れたおかげでした。
小川高校に入学。せっかく楽しくやっていた野球を放り出し、バイト、バイトの日々を送っていました。
車の免許を取得したり、専門学校の教材費を捻出できたのは良かったのですが、一番エネルギーのある時期に思い切りスポーツに向き合い、打ち込まなかったのが大きな後悔となり、学生アスリートを応援する原点となっています。
当時のアルバイト仲間とは今でもよく顔を合わせ、お互い家族が出来ても変わらぬ付き合いを続けており、人生のストーリーには欠かせない存在です。
妻とも高校で出会っているので、大きな後悔があるとはいえ、充実した未来に繋がる期間であったのかなと思います。
〈専門学生時代〉
体の使い方や構造への興味、人に直接役立てる仕事をということで進路を決め、高田馬場にある日本医学柔整鍼灸専門学校へ入学。通常のカリキュラム以外に、臨床研究会というゼミに参加させていただき、カイロプラクティックやオステオパシーAKA、構造医学、操体法など、多岐に渡る手技療法や学術の概要に触れさせていただきました。
学生時代に偏った見解を持たずに済んだので、体へのアプローチに対し、柔軟な捉え方が出来るようになったと感じています。
年に一度の国家試験も一発合格し、晴れて治療家への仲間入りとなりました。
〈修業時代〉
「学校の求人の中で家から一番近い接骨院だったから」という何とも単純な理由で、富士見市鶴瀬の花谷接骨院にて修行をさせてもらう事となりました。
師匠をはじめ、弟弟子達もスポーツや学業に真剣に向き合い、打ち込んでいた事による自信があるように思えました。
学生時代は勉強、運動、人間関係と特別苦労も苦手意識もなく、この分野に時間を費やしたとか、これが大きな挫折だったというエピソードはなく、山も谷もなく楽しい事だけで過ごしてきてしまったおかげで、「自分はこういう人間です。この経験があったおかげで今の自分があります。」というものを積み上げて来なかった事に大きなコンプレックスを感じました。
当然、自分の付き合ってきた人とは考え方の基準が大きく異なり、真反対の社会に足を踏み入れてしまった感覚でしたが、『この師匠に付いて行かなければ自分の人生は変わらない、今までの考え方ではとても社会に貢献していけるはずがない』と思い、必死についていく覚悟をしました。
自分にとっては何もかもが学びの日々でした。
掃除の仕方一つでも、挨拶の仕方一つでも、それぞれ意味があり、相手がいる事、ロクに患者さんと会話も続かない、礼儀もなっていない私に多くの事を伝えてくれました。
治療や患者さんとの関係性作りなど、治療院運営の事は勿論、一番初めの弟子ということで、多くの講習会に同行させてもらったり、セミナー開催のための運営を学んだり、商品開発の過程、マスコミへのアプローチの仕方、中学生へのコーチ活動など、数え切れない体験、学びがありました。
ストレスを抱えすぎると円形脱毛症として体にあらわれる事(笑)
お酒の入った状態で限界を超えるまで筋トレすると血尿が出てくる事も学びました(笑)(笑)
〈卒業、独立〉
様々な事のあった8年間でしたが、地域No.1治療院で副院長として多くの症例を診て、様々な悩みを抱えている人に対応した事が、今の自分の一番の自信となっています。
平成28年2月で卒業、独立し、東松山市にて地域の皆様に愛される治療院作りをしていくことになりました。
〈大切な人を大切にする〉
これは、いつもお世話になっている花谷博幸先生のお言葉ですが、自分の人生の上で大きなテーマとなっています。
私が専門学生の時に両親が離婚しており、父親と一緒に過ごしました。学生時、就職以後は朝早く、夜遅かったので、あまり話す時間もなく、結婚して家を出てしまったので、大人になってからちゃんと向き合った機会がありませんでした。それでもいつも気にかけてくれていた父でしたが、開業を待たずして他界してしまいました。
出版関係の会社に勤めていたからか?小さい頃から沢山の本を読ませてくれた事は、今でもとても役に立っています。
父親としての父しか知らず、病床に伏して以降、父の友人から聞く話は初めて聞く事ばかりで、子どもの頃の事や社会人になってからの話ももっと聞きたかったなと思います。孫の顔を見せることは出来ましたが、子育てをしている時の父や自分の様子も話したかったです。親孝行らしい事を少しもさせてくれませんでした。孫の成長を見て欲しかったし、自分の成長も見て欲しかったし、そんな報告を親にするというのは、子どもにとって大きな目標になっていたんだなと、亡くなってから実感しています。
大きな目標を失ってしまったからといって、自分には明日を信じて前を向くことしかできません。恥ずかしながら、親を失ってようやく自分の人生を自分で描いていかなくてはいけない事を自覚しました。
父が自分たちを愛し、守ってくれたように、私にも妻と2人の息子、守るべき家族がいます。自分を支持してくれる人もいます。「大切な人を大切にする」その思いを胸に、日々、自分の出来る最大限の治療を提供していきますので、末永いお付き合いを宜しくお願い致します。
長くなりましたが、最後までお読み頂きありがとうございます。
今度はあなたのマイヒストリーをお聞かせ下さい。